MEDIA : 建築技術2011年9月号にコラム記事を掲載
2011.08.29
東京オペラシティアートギャラリー 《第12回ベネチアビエンナーレ国際建築展帰国展》
まず、真っ暗な空間があなたを迎える。このエンカウンタースペースの奥に「密集する住宅地の航空写真の映像」が大写しされている。変化し続けているのが楽しく表現されている。一際大胆に、なにやら蠢いている区画が目に付く。北山氏の言う「アイコン化された建築」であろうか。塚本氏の言う「コマージデンス」であろうか。明らかに街のコンテクストから切り離された部分である。 「家の外の都市の中の家」とは、3人の建築家が今回のテーマタイトルにしているものだが、私が興味深く感じたのは、それぞれ実際に存在する建築作品?により表現された周縁外部空間の再解釈である。塚本氏の「スキマの再定義」、西沢氏の「無境界」、北山ボスの「内外の相互貫入」。などなど。
時代が進み、大衆もプライバシーを強く意識するようになり、70年代以降、建築家も外に閉じた中庭形式の建物を都市住宅として提案するようになった。自我領域つまりプライバシーに保護する方向に進むことで家々は個々に完結を求め近隣社会を必要としなくなった。それにより周縁外部空間は荒廃してゆく。空調設備の普及や、虫たちを異様に嫌う都会人が増えるにつれ、夕涼みなど路地のアクティビティも減っていった。当然、両隣コミュニティも減っていく。 彼ら3人の提案は、農村や漁村集落のトポロジーに近い。外部空間の共有化は、自我エゴが共同社会に押さえつけられていたゲゼルシャフト(地縁・血縁・宗教)的コミュニティが支えていたものだ。 おりしもネット社会への移行は「情報コミュニティ」をはやらせ、人間個々の自我自体すら情報化され、現実社会から切り離し可能になっている。まさにフロムが「自由からの逃避」で予言していた社会が目の前に出現しようとしている。現実の閉塞感から逃避を求める自我たちに、現物である建築をとおして彼ら3人はどう呼びかけようとしているのか?
《ハウス&アトリエワン/塚本氏の部屋》 部屋の中央に、エンジ色の家の模型が建っている。 縮尺100分の45といういささか中途半端な大きさにレデュースされている「ハウス&アトリエワン」だ。 北山ボスにもらった「トウキョウ・メタボライジング」の136ページの断面図をみてみると、ベネチアの展示では床に埋め込まれている。45と言う尺度は日本館の吹抜部を利用するためのものらしい(たぶん‥‥)。これだとこのハウスの屋上の楽しげな空間も一瞬で分かる。残念ながら、壁面のスライド映像になった「屋上の風景」を「イヌイス」に座って鑑賞する。(これはこれで、なかなかいいぞ。) 見返しの壁面のスライドでは、スタッフの日常が映像化されている。 外部空間の積極的な利用が、自然に促されるしつらえである事が分かる。 内部外部だけでなく、隣地との境界、機能的な境界なども取り払い共存させていこうとする姿勢は、細分化され余白のなくなったトウキョウの住宅街に新しくなおかつ普遍的な解を求めていこうとする覚悟が感じられて共感が持てる。
《森山邸/西沢氏の部屋》 こうしてインスタレーションとして見せられると、過激さが消えて、詩的で美しいがゆえに思わず肯定的にみてしまうが、これはかなり過激な建築だ。トポロジーは懐古的に見えるが普遍性があるわけではない。空間とスケールのレトリックを施されたデザインが都市の中にインスタレーションではなくパーマネントに実物として出現してしまうところにこの建築の凄みがある。周辺のコンテクストとは切り離されているが、特異性が周辺のなんでもない風景や空間を強く意識させるパワーがある。 浴室やトイレが離れとして、母屋と別に外部に別棟であるのは昔の農家ではありふれた形式であるが、あえて利便性を求める時代にこの形式を実現したのは驚きだ。 ばらばらな建物のあいだの外部空間は、路地や袋庭などの都市のトポロジーに似ているが軒先やパーゴラや縁台などのベッタリとした雰囲気作りの建築アイテムはまったくない。さらに部屋レベルまで解体されているため、スケールが住宅とは思えないほど小さくなり、無境界であるが異空間としての印象の強さが周辺に縄張りを強く主張している。 かつて住宅の機能の解体の試みとして「個室群住居」などがあったが、まだ「自我」が思想の中心にあり普遍性が感じられたが、そんなのどうでもいいよ‥‥。と言うぐらい、まさにバラバラに解体されている。 最後に、学生の方々が製作したと言う白いケント紙の植物やらイスやテーブルやらが建物のレイアウトや空間性を意識させる効果的な演出になっていた。
《祐天寺の連結住棟/北山ボスの部屋》 住宅地の巨大な壁面模型の中心にある分棟形式の集合住宅が「祐天寺の連結住宅」だ。 建物のスケールは周りよりも大きいが、分棟形式の建物に画定された外部空間は周辺のスケールに合わされている。この集合住宅もプライバシーの解釈が結構過激なのだが、この展示方法では角を隠している印象だ。 外皮を透明のガラスにすることで、空間は都市へ連続する。内外を相互に貫入させ一体化することによる空間の気持ちよさ。このよさを実現するのも結構大変だ。同じ敷地内の住戸間つまり集合住宅では、プライバシーの制約は少なく寛容的だが、これが敷地外の近隣だと異様なほどの権利主張の抵抗にあう。しかも隣接住戸が接近していて「隣家の内部が見えてしまう。」構成は「映画でよくある設定」だが、うかつに言えば袋叩きに会う。 さらに、分棟というデザインを選択すると、実現するのにはつまらないところに結構な労力がいる。確認申請を出すさい「一建物一敷地」と言う建築基準法の定義に「一つの建物にみえるようにしなければならない」というわけの分からない指導が加わるからだ。建物を分けると敷地も分けなければならないし、つなげれば一体に見えなければならないという。これら時間をかけて結局押し切るのだが、結構消耗する。 相変わらず、北山ボスの闘う姿勢はすばらしい。
《新しい都市のインデックス》 3.11の大震災や原発の恐怖のあとにこの展示は行われている。未曾有のカタストロフィーはエネルギーに頼る社会からエコへの変換意識を高めることになった。大衆のエゴやプライバシーの保護は、経済活動を促すエネルギー浪費の多い利便性とともに、この国を発展させてきた。その代償として建築周辺にあった日常の地域コミュニティの喪失を直接的間接的にもたらしたことを暴きだしている彼らの提案はタイムリーに写る。しかし、ベクトルは同じでも、建築家の意識と大衆のムードの位相の違いはかなりある。その溝を埋めるいくつかの地域活動の試みが紹介されているのでぜひご覧いただきたい。
関根裕司/ARBOS

